昭和44年05月24日 朝の御理解
御理解 第43節
「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。」
死に際にもお願いをする、死に際にどういう願いをするのか。死際にもどうぞ助けて下さいと言うて願うのか。そうでもなさそうですねぇ。死んだからというて神様のおかげを受けずにはおられまいがと仰るところから、死んだ先にも神様のおかげを頂かなければ立ち行かんぬ所へ、私共は行くんだという事は、生、死を通して天地の親神様の懐の中にあるんだなという事は、ここを頂いても分かります。生きても死んでも確かに天と地は、わが住家と思へと仰るのですが、やっぱりそういう訳でしょうね。
死ぬるという様な事やらは、やっぱり死ぬる事よりかやっぱり生きると言った方がいい訳ですけれども、これはもう厳然としたそのう事実であり、どこのどういう誰であろうがこれには、お互いが直面しなければならない事実でございますから。信心のぎりぎりの目標というかね、目指しというのは、死に際にもお願いが出来るという程しの信心を頂かねばいかんという事を、思わして以って信心と言うてもよいのです。死に際にもお願いの出来る程しの信心。そこに私は死生の安心というものを感じます。
昨日大善寺教会の教会長美野島という先生がおられましたが、先日御大祭を奉仕されて十七日でしたか、十八日には密葬があった。ほれて昨日はまぁ本葬だったですから、ここから若先生が参りました。まぁ大変立派な告別式がありましたそうですが。あちらでお話しを聞いてまいっとります事を、まぁ一言話しておりましたですが。とにかく実に神ながらなお国替えであったげなと言うてから話しております。御大祭を済まされ、霊神様へ御挨拶をされて、そして三十分後だったそうです。
私はお若かかったから私共ぐらいかと思うとったら、もう六十四才か五才かになっておられたらしいですけれども。こちからは城島の教会の出社で、城島教会ですねぇ。それで息子さんがおられるのですけれども、まだお父さんの後を継ぐという意志が無かったんでしょう。ところが昨年そのう奥様のか、奥様はまだまなんで引退とですけれども、学院に入っとられて今年卒業しておられる。
大体が身体が大変お弱かったから、とにかくあのう息子がお道の教師にならして頂くまでは、というのがいつもの日頃の願いだったらしいですね。ですからもう本当にいわば願い通り学院を卒業して帰ってみえた。そして御大祭を奉仕された。そしてお国替えというまぁ実にまぁ神ながらな事だった訳ですねぇ。私共がええそういう例えばおかげを頂いて、例えばその後に残る者もです、神ながらなお国替えであったなと言われるような、ひとつおかげを頂きたいと思うですね。人間の欲を言えば限りがないですけれども。
そこに本当に神様のおかげを頂いておるという事。そこで例えば43節から44節を頂きますと、御理解44節に「狐狸でさえ神に祀られる事を喜ぶと言うではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神に祀られ、神になる事を楽しみに信心せよ」とこういう。これは厳密に言うたら大変な事だと思います。けれどねぇ、毎日毎日が感謝の生活、喜びの生活ね、そういう生活にならせて頂いとりませんとですね、神に祭られる楽しみとかね、喜びが沸いてこんのじゃないかとかとこう思います。
毎日毎日が有り難いという、言うならば毎日毎日が、苦労のない日々という事です。ところが実際問題としては、この世は苦の世だ、苦の世界だと言われる位ですからね、その難儀も苦労も日々感じます。難儀な事じゃなとこう思う事がこざいますけれどもです。ですからそのう難儀そのものがです、いかに有り難いものかと、その難儀の本質が。難儀の本質というものは、いかに神様のいわゆる、神愛の現れであるかという事をです、知っておくという事ですね。
例えば今の様に時候が暑くもなからなければ寒くもないといゃ、まぁ本当に極楽なんですけれどもそうとばかりにゃいかんでしょう。やっぱりもう炎天焼くような夏の日もあるかと思うと、凍えるように寒い日もございましょう。ですからその事だけでもやはり難儀は難儀ですね。苦労は苦労です。けれどもその暑さも寒さも、神様が人間可愛い氏子可愛いとおぼしめす、その現れがこの暑さでありこの寒さであると、分かるという事なんです。ですから暑いけれども寒いけれども御神愛の中にあるんだ。
神様のお恵みの中にあるんだ、有り難い事なのだという事が分るという事です。そういう信心を分かりいよいよそれをつのらせていく。その有り難さというものを、いよいよ実感を以って有り難いと、お礼の申し上げれる日々という事なんです。言うならば本当の信心が分かるという事なんですね。私は本当の信心が分かるとはそういう事だと思うんです。本当の信心というのはね、例えば暑かっても寒かっても、それは生身を持っておりますから、暑い時はやっぱ暑い寒い時は寒い。
それが術ない程にそれを五体に感じる事もございますけれども。その事も神様の言うなら愛情の現れだと分かる。という事はそれを悟らしてもらうという事。そうそこんところがです私の根本的なところ、そこんところが分かって、それがいよいよ本当なものになっていっておるなら日々がです、いうならばいつお国替えを頂いても、その通りの事があの世でなされる訳です。いつもが有り難いというのですから、いわゆる極楽行き間違いないという事です。
この世では苦しい仕方がなかったけれども、あの世でなっと極楽に行かにゃというて、只仏様を拝み神様を拝んだだけでは、極楽にはいけないという事。いわゆる後生願いの信心じゃいけないという事。今月今日只今がです有り難いという事が分かる。けれどもやはり寒ければ寒いんだ、暑けれゃやっぱり暑いんだと。けれどもそれは神様のお恵みの現われであると悟らせて頂くという事。信心とは悟りだと言われております。それが本当の信心の基本になるものですね。
43節今日頂くのは、「死んだからと言うて、神のおかげを受けずにおられまいがと、死に際にもお願いせよ」と、誰でも死ぬるという事は逃げとる、いやだ助けてもらいたい、一時でもこの世におりたい。こりゃまぁ誰しもの願いなんですけれども、死に際にもお願いせよという程しの信心を、身につけておかなければならない、という願いを持てという事です。「死に際にもお願いせよ」という事は、もうもう自分は難しいかと分かった。もう自分な寿命がもう長くはないだろうと思うから遺書の一つもする。
そういう時に「どうぞもう一日生かしてとっておって下さい」と言うて願うのじゃなくてですね、いよいよね生の世界から死の世界へ、いわば誕生して行こうとする時にです、あの世での事を、いよいよ願うて行かなきゃならん。それにはやはりこの世でのお粗末、御無礼も詫びて行かねばならんし、けれどもおかげを頂いて暑い事も寒い事もね、それは難儀と感じたけれどもです、けれどもそれは神様のおかげであると分からして頂いておるという事であるから、心やすいのです。
だからそこんところが分かった時に、私はあの世で極楽行きゃ間違いないと、確信出来るようになるのです。この世での有り難いというものが、そのままあの世に持って行けれるのですから。そういう意味でひとつ本気で本当の信心を目指さして頂かなきゃならん。「人間は万物の霊長であるから、死したる後神に祀られ、神になる事を楽しみに信心せよ」という事は、そういう事だと私は思うんです。私はこの43節を頂いて、次にこの44(しじゅうし)ということをこう44節ね、44節が今ところでこの。
44(しじゆうし節)の所ここを頂くんです。これは始終もういつもが死ぬるという事がこれなんです。始終死という事は。それは自殺なんかをする人がですね。いつぅも自分が死ぬる事ばっかり考えておるとらしいですよね。どうして死のうかと。川に飛び込んで死のうか。汽車に飛び込んで死のうか。毒薬を飲んで死のうかと。死ぬる事ばっかりを考えておる。そうう意味じゃないです、今日私が言う「始終死」というのは。いつも死ぬる時にです、いつも死ぬる時にお願いが出来る信心を考えておけという事なんだ。
ですから今日こうやって私が説かせて頂いておる事は、私も一生懸命ですから、これはもう言うならば、遺言のつもりで説かなきゃならん。又皆さんもあれは先生の遺言になるかもしれんのだからという気持ちで、一生懸命頂いとかないけん。ですから馬鹿な事は言えない。「はあぁ先生があげなこつ言いござったが、ちゃんとほんなこと死なっしゃた」ち、言うて笑われるようなこつじゃいかん。本当にあん時の御理解が最後の御理解。あれを私のね生涯の例えば遺言として。
先生の遺言として頂くというような頂き方が、私しゃ大事じゃなかろうかとこう思う。昨日若先生が大善寺の告別式から帰って参りましてから、会葬御礼を頂いてきております。はぁ立派なハンカチっがね配られておる頂いて来ております。それにまぁ行き届いた事だなぁと思うた事は、それに清め塩というのが、ちゃんとついておりました。ハンカチにですね。やっぱ清めるね。例えばお葬式なんかに参りますと、とにかく家に入る前に表からそのう今帰った事を知らせると。
家に入る前にこやって塩で清めて中に入ると、こういう訳なんです。縁起が悪かという訳なんです。だから塩で清めていわゆる清め塩と。私共は日々がですね。いわゆるしじゅうし、黒い死の影がいつもついておるといった様な、言うなら普通で言う縁起の悪いという考え方ではなくてです、いつでもどこででも死に際にも、お願いの出来るような信心を頂きたいという願い。果たして今日は一日どういう生き方在り方をしたであろうかと。本当に今日も一日苦しい事であったけれども。
けれども私は一日を締め括らして頂く時にですね、けれども有り難い事であったという。それで毎日を清めていかなければならない。それが清め塩だと私は思う。今日も暑い一日であったと。今日は本当に寒い一日であった凍えるようにあったというような時でもね、けれどもそのおかげで、例えばね私は農作物の事はあまり知りませんけれども、あの暑さ寒さがなからなければ、麦も米も本当のよい言わば豊作にならないという事でございますがですね。
その暑いも寒いも神様のお恵みの現れであったとして、有り難いとお礼の言えれる事。どんなに今日一日が苦しかっても、それを最後の有り難うございますというお礼の、いわゆる御礼塩で清めるという生き方毎日が。はぁ今日も苦しかった。只苦しかったでもし休ませて頂いておってですよ、あくる朝冷たくなっておったら、苦しいなりにお終いなんです。そんな事があってはならない。と今日もですね、礼を申し上げさせて頂いてのおかげ。そこでやはりねなんというですか。
心の上にも整理整頓が必要であるように、自分の周辺身の回りでもそうである。昨日上野さんが先日手紙をよこして「皆様にもどうぞよろしく」とまぁだ入ったばかりでなかなか葉書を手紙を書く暇がないらしいです。でところがそのまぁ細々とした事を、まぁあちらでの模様を知らせてきております。昨日北野の方の実家の方へお礼の葉書を出しております。そして最後のところに「御信者さんの皆さんにもどうぞよろしゅう、親先生にどうぞよろしゅう」と言う事が書いてある。
こりゃもう誰しもがこれを使う訳なんですね。お手紙を書く時には「奥様によろしく」「御家内様によろしく」とこういうでしょ。私はこのあのう皆さんによろしくというこの事がね、いつも言えれるおかげを頂いとかないかんと思う。これはいうならばもう自分がいつ死んでいくやら分からん時に、誰でもにでもよろしゅうと言えれる心境だという事なんです。「永々お世話になりましたと。どうぞ誰々さんにもお目にかかられないのは残念ですけれど、誰々さんんにもどうぞよろしゅう」とこう言えれる心境ね。
もう今日はあって明日はないかも分からない、私共の命なのだからなのですね。皆さん朝っぱらからいっちょ先生が、死ぬる事ばっかり言うてと思われるかも知れませんが、しかし一番大事な事なのですから。「死んだからというて、神のおかげを受けずにおられまいが、死に際にもお願をせよ」とこう仰るが、実際はお願いが出来ん。そこでそのお願いが出来る程しの信心を頂いておけという事だと。44節に至ってはいつもが死ぬる。しじゅう死ぬるという事を思うとかなければ。
いつも死ぬるという時にですね、いわゆる清め塩であり又は皆さんによろしゅうと言ういう事なんです。「狸、狐ですら神に祭られるという事を喜ぶと言うではないか」と。人間人は万物の霊長なれば死したる後神に祀られ、神になる事を楽しみに信心せよ。毎日毎日が暑かったり、寒かったりけれども有り難かったという、私はそういう信心をさせて頂いて初めて神に祀られ、神になる事の楽しみの信心が出来るという事を思います。
どうぞ。